昭和43年8月5日 夜の御理解



( 途中から )もっておりましたけど、夕べはちょっと、体の具合が悪くてから出来ませんでした。とにかくあの、お祭りが、あー、始まる前に、ご挨拶にだけでも行っとこうと思いまして、思うとるところへ、丁度あの、関さんが参ってまいりました。で、関さんの車で、とその時にあの、國男?さんと繁雄さん、兄弟でお参りして来ましたから、髭を当たりたいと言うてきたんです。けども、髭よりちょっと、私、今から、久留米に出るからと、なら、私共もお供させて頂きましょうといったようなことで、あの人たちが二人付いてきてくれました。それでまだ、お祭り、まだ、随分前に、あちらに、いー、お参りさせて頂いたわけでございますが、んー、帰りにあの、ドライブインでちょっと、お茶を頂こうと言うてお茶を頂きました。で、そこにあのー、明治百年の、あのー、ポスターが出ていました。皆さんも、もう、存知よりの方があろうと思いますが、あの、菊の花を図案化した、日の丸の中に、大きく、うー、菊の花と、いうなら、茎であろうか、下からこう、一本の、こう幹が出ておるようにして、そこにこう、花がこう、ま、菊の花が咲いておるような感じのポスターでした。もう、それが、何とはなしに、私はあの、自分の心にこう、響いてくるんですね。そしてあれは、ちょっとそん、ちょっとみんな見てごらん、菊の花の図案化ではあるけれども、あれは、丁度あの、原子雲みたいだねと言うた。原子雲を暗示するような感じだねと。はー、ほんと、そげんして見ると、下からこうあって、原子雲そっくりですねと言って、言った事でございますけれどもね。
私は思いますね。ほんとにあの、ここで菊の花といや、ほんとにあの、喜び、いー、を久しゅうして行くと、ね。この信心の、おー、願いとするところは、この喜びだと。もう、信心は、あー、ほんとに、有難うならせて頂く稽古以外にはないんだと、言ったような教導を日々、まあ、受けておる私共としましてですね。けれども、そういう有難い心に、有難いおかげが受けられると同時に、私は、それはまた、反対に返しますとですね、それはあの、原子雲のような、私は、ものだと、こう思うのです。ね。それはあの、おー、切れ味の良い刀はもろいと、折れると言われております。ま、その表現は、あー、合楽の場合は適当でないかもしれませんけれども、ね。とにかく、私共はですね、確かにもう、ほんとに、打てば響くようなおかげが受けられるという事と同時にですね、ま、一つ間違えばというところ。これはもう、十何年も前に、十七、八年も前に頂いた御教えですけれども、ね。金光様のご信心はと言うよりも、それから、合楽に、いわゆる、椛目合楽を通して現れてきたゴヒレイの、それと、この思い合わせてですね、その事を教えて下さっておったように思うんですね。金光様のご信心というのは、私は、その時のご心願を、今でもはっきり覚えておりますが、御結界に金光さんがお座りになっとるというご心願でした。ところがその、金光様がですね、大きなあの、ふぐ、魚にふぐというのがある。ふぐのようになられたお知らせでした。ほんとにあの、有難くいただけば、それこそ、天下一品の珍味だ。けれども一つ間違うとです。ね。命にかかわるような事にもなるぞと、言ったような厳しい、私はあの、物だと、ね。という事に私は、こちらが、その気で向かえば、おかげが受けられるという信心だと言う事なんです。そこで私は、あの、思うんですけれどもね。まあ、面はゆい事ですけれども、ね。とにかく、私を信じてくださいと。まあ、これを言いたいのです。ね。それは、私が御結界から申し上げる事だけではない。ね。もうそれは、茶飯事の中に冗談の中にでもです、本気で、私を信じてください、ね。例えば、えー、医者に、身体を見てもらって、ね。ああこら、大丈夫だと言われりゃ安心し、っと、首をひねられれば、もう帰りには車に乗って歩いて行ったものが、車に乗って帰ってこねばならんというようにその、んー、ショックを感すると言うようにですね。とにかくその、医者、その人を信じておるからでございます。ね。せめて、そのくらいには、その私も信じられたい。だからといって、信じて下さい、信じて下さいと言ったって、ね。出来ませんけれども、私も、皆さんに信じられるために、精進いたします。ですから、皆さんもやはり、信じるための、ね。ああいう中にでも、こういう中にでも、先生が言うた事、いや、親先生が言われた事は、このような、響きを持つものであり、おかげに繋がるものであり、という事をです、私は、本当にあの、感じていただきたいと言う事です。私はまだ、直接、お届けさせて頂いておりませんけれども、松岡さんところの、おー、今日、息子さんが、交通事故を起したと、ね。もう、本当に私は思うのに、あの、六月三十日の、これで四回目ですもん。ですから、ね。丁度、七月、まあだ、一月余りの間に次々と四件の、御信者さんの中に交通事故が起こっておるんです。ね。もう本当に、ゆめ私は、あの、ここで頂く事をですね、おろそかにしてはいけないと。去年、あげなおかげを頂いたけん、今年も頂くてなんてん事はなかと。今年は、ちょっと神様の条件がついてる。今あるを嬉しと思うてと。言うあの信心がですね。そこに、出けておらなければですね、駄目だと。同時に私は申しました、ね。例えば、法規を無視した、例えば、この、自動車なら自動車だけのことではないですけれども、一事が万事そうです。ね。法規を無視した行き方、ね。例えば、スピード違反とか、何かとかね、ね。飲酒運転とか、ね。これは、私は、ま、言うならば、うてあわんと。けれども、本当に、そこにですね、今あるを嬉しという、これはもう、ここに、寸分のスキがないという訳じゃないですけれども、人間ですから。ね。けれども、せめて、ほんなら、自動車に乗るとき、または、ハンドルを握るときにです。その事を、ほんとにあの、おかげを頂いておることを、感謝するような気持ちがね、どうでも必要である。こらはまあ、軽い事故ではございましたけれども、これは、もう、それは、それなかんでもです、もう、ほんとにあの、致命傷をそれましたですね。もう、ほんとにびっくりするようなおかげですよ、やっぱり。その四件とも。今日、松岡さんな聞きませんけれども、それとてもまあ、軽傷らしい、あ、軽傷というが、ま、簡単な事だったらしい事ですけれども、ね。けれどもこれは、もう重々、私共の息子が悪うございますと、飲酒運転じゃったというのですよ。ね。ですから、例えば、ほんなら、私が言うておると言う事の中にですね、もう、こんなにも間違いなく、ほんなら、起きておると言う事。去年と今年が、もう、赤と白ほどに違うておると言う事。菊の花と、言うなら、原子爆弾の、原子雲のように、はっきりしておると言う事。菊の花にも見えるかと思や、原子雲にも見えるんだと。ね。有難くいただけば、それこそ天下一品の珍味なのだと。けれども、一つ間違うたら、命にもかかわる事になるぞというですね、ここんところを、私共が、本気で、修行させて貰い、頂かせて貰うと。いかに、真剣な、信心修行を求めてですね、そして、私共の心から、思わんでも、おー、考えなくても、ね。心のなかから、絶えず有難いものが湧いていると、金光様が、あー、唱えられておると言ったようなおかげを頂くためにもです、そこんところの、私は、精進をお互いさせてもらい。まあ、これは、私は、こんなにですね。こんなに、今日、私が見せて頂いた、今日のあの、菊の花にも見えるが、ちょっと見ようでは、あれは原子雲のように見えるねという、その事なんです。ね。ですから、このように、いわば、はっきりしておる事であるから、ゆめ、例えば、私が申しました事をですね。それを、まあ、信じられない方も沢山ございましょうけれどもです。ね。例えば、もうほんとに、この人は嫌だと思うたら、嫌でたまらん、けれども、この人には、こんな良いところがあると、こう思うて見たらです、その良いところが、ね。段々、見えてきて、その人は良い人だという事になってくるのです。そういう見方をですね、お互い、させて貰う稽古をさせてもらってですね、いわば、私はあの、お取次ぎの、おー、働きと言うものがね、このようにも、厳粛にね、その、おー、私共の日常生活の上に、起きておる、あっておると言う事をですね、一つ、本当に感じて頂きたいと。ね。例えばその、交通事故という、一月余りの間にですね、例えばその、次々と四件も起こるというところにです。ね。去年は、それは、仕方がないとして、ね。去年は、払うただけで、払うてやっただけで、ね。雲霧もないというようなおかげが受けられたという事実をですね、思い。今年は、もうそれじゃいけないぞと、信心が成長しておかねばならない、それこそ、今がどうですという、私は、この喜びに立っての日々。そういう感謝の念にたっての日々を、私は、忘れてはならないと。ね。そこに、私共が、神様に求められておるところの、信心が、ま、あるわけでございますけれどもね。本当に、私は、信じてもらいたいと。ね。それにはやはり、私も、ねえ、こ親先生の仰る事はもう、ゆめ、冗談でも、あれはおろかには聞かれんと、言うほどしのところまで、皆さんの信心を高めていただきたい。同時に、私も精進する。
私が、今日、家内と話した事ですけれども、ほんとにあの、先日から、あの、おー、菩薩と畜生という、あの、仏教で言う、一つの仏格とでも申しましょうかね。御道の信心で言うなら、神格とでも申しましょうか。お互いい、人間の心のなかが段々、あー、この昇華するですね。段々、この、喜びが増えていくに従ってです、ね。菩薩とも、生神とも、なれれる道なんですよね、御道の信心は。それがですね、まあ、例えていうならば、まあ、自分は今、どのような所にあるかわからんけれども、まあ、自分は、このくらいのところまであろうと、こう思うておった。ところが、よくよく考えてみると、私の心のなかには、畜生とおんなじような心があったという事を気付いた。ね。あの、説明の中に、あの、畜生というのは、弱いものと見たら、牙をむく。強いものと見たら、おべっかを使う。これは、まさしくもう、畜生だというような説明が加えてございます。私の心の中にもそれがある。ね。例えて、私のほうの、子供達にでも、私がですね、長男やら、長女やらは、私に反発してくるです、言うと。だから私が、まあ、もう、言わない事にしておるし、または、もう、こちらが機嫌とるようにして、ものでも言うておるわけですね。まさしく、おべっかを使っているわけです。ね。と、ほんなら、今度は、愛子になり、光昭になるとですね、もう、私がもう、むき出しに、喧しくもいうし、それでもあの、まあ言うならば、ひとっつも逆らいません。こりゃ。ね。勝手に下がれば、こちらの辺には、ニコニコしとるかと思いや、家内にはもう、ぶーっとした顔で接しておる。これは、ほんとに、今まで考えてみると、これは、ほんとにお前を、俺は軽う見とった。そして、今日、私が本当のことを思うたことはですね。あのー、私の信心は、家内が育ててくれたといったような気がする、その後においては。ね。よう、家内がですね、ああいう中に、黙って付いてきたじゃなくてから、あー、家内の信心に今日は、ある意味で敬服いたしました。自分が育っていきよるごつ思いよったけれど、反対に自分のほうが育てられよる。そして、ほんなら今日、こういう事を分らせて頂いたのも家内であった。ね。言わず、語らずの内に分らせてくれた。そして、自分の信心の中身にです、ね。畜生のような、いわば、浅ましい心があったという事をですね、えー、感じました。ね。ですから、私自身も、まあだ、そのように、いわば、消化仕切れてない、ね。昇華というのは、昇る華と書いてありますね。昇華しきれてない私なのです。だから、私も、そこのところを、本気で見極めてですね、私も、いよいよ、ほんなら、菩薩なら菩薩、生神なら生神と、ね。いわゆる、金光大神なら金光大神を目指して私も、おー、ほんとに住まわしてもらわなければならないというう風に感じたんです。ね。ですから、私も精進する。だから、皆さんも、やはり、精進していただかねばならん、そして、ほんとに、いわば、あー、お取次ぎの働きというかね、えー、また、お取次ぎの働きは、勿論、その、有難いのですけれどもですね、お取次ぎをされる、例えば、取次ぎ者に対するところの、信というかね、それを、いよいよ、高めていただきたい。もう、これは、私の、これは、うぬぼれかも知れませんけれども、どこの、誰さんたちよりもです、合楽の人たちは、そういう意味合いでは、おかげを受けておられますです。けども、もっと、もっと、私が言うておる事をですね、おや、今年の大祓いにはね、もう、大変な事そ。去年は、ああじゃったが、今年はこう、ほんとに本気でこの気にならにゃ、ほんとにいかんぞと、例えば、本気で、例えば、思うておられる方が幾ら在るだろうかと。そこで、次々と、一ヶ月の余りの間に、四件も、ほんなら交通事故を持ってですね、示してくださっておる。そこに、私共がね、あの、気付かせていただいて、これは、交通事故だけの事ではありません。一事が万事の上に、そういうお気付きをですね、ある意味頂いておるのである。ね。そういうようなことを、私今日、しきりに、こう思わせていただいて、いよいよ私が、ほんとに、私の心からです、ね。いわゆる、菩薩とか、神とかというようなところからも、もうほんとに、似ても似つかんような、自分の心に、本気で取り組ませて頂いて、精進していく事だけにです、ね。ご信者の皆さんも、ここんところに一つ焦点を置いて、ね。親先生が言われる事に対する、その言葉をですね、本気で吟味して、本気で、その気で、それを受けていくというですね。いわゆる、受けて立つという、いわば、信心をですね、日常生活の上に表せて頂きたい。ね。それが、ぼんやり、思うておる、分っておるのではですね、やはり、まさかの場合に間に合いませんもん。ね。そんな気が致します。どうぞ。